コトバびいき

素敵な「コトバ」から自分を考える

結婚・出産・お金などわかりやすい「幸せの共通認識」をインスタでアピールして、いいねをもらうことで自分は幸せなんだって自覚してる。【マツコ・デラックス】


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結婚・出産・お金などわかりやすい「幸せの共通認識」をインスタでアピールして、いいねをもらうことで自分は幸せなんだって自覚してる。これは幸せかは他者に委ねてる状態ね。でも私は他者を介在させずに、喜びを得ることが幸せだと思うわ。

 

マツコ・デラックス

今まで感じてきた謎の違和感

このコトバに出会った時、自分が悩んできた何かを綺麗に言語化してくれたものだと感じました。

今まで生きてきた中でみんなが幸せと定義したことをしても、あまり幸せだと感じることができませんでした。みんなでBBQをしていてもどこか虚無。仕事を頑張ってみたけど、疑問は募るだけ。SNSをやってみたけど、なんのためにやっているのかわからず、余計に自分のことを虚しく思うだけでした。

自分が変な人間なのかもしれないとずっと悩んできましたが、色々な本を読んだり人生経験が増えるにつれて、少しずつですが、濃い霧の中に光を感じることができるようになりました。この言葉はそんな光の中でも最も明るいものになるかもしれません。

世に言われていることが本当に幸せなのか?

まず、世の中で言われている幸せ。もちろんこれを心底幸せだと信じて信じ切れる人もいるでしょう。それはそれでいいんだと思います。

幸せなんてものに正解はないでしょうし、所詮いつかは死にゆくのが人間であり、生物というものです。今自身が心底満足しているのならそれを否定する必要もないし、変える必要もないでしょう。

ただ、もし自分のことを「幸せだと思おうとしている」場合や、「自分が幸せかわからない」なんて場合は少し自分と向き合う時間を長く持つべきなのかもしれません。

どうやら世に言う幸せが、自分自身にとっての幸せでないってことが往々にしてありうるようだからです。

お金をや物を持つことは幸せだと教わったけど、どうやらそうでもなさそう

例えば、お金やものを持つことって幸せなことだと教わりました。しかし年齢を重ね年収が少しずつ上がりました。もちろん嬉しいことではありますが、それはどうやら一番の欲求ではなさそうだなと気付きます。生活に困らない程度のお金があれば私にとってはその他のことの方にプライオリティがありそうです。

出世をすることはどうでしょうか?一番根っこを考えると出世自体を欲しているわけではなく、地位があり周りから羨ましがられる自分を求めていることに気づきます。私は本当に自分にとって必要なことかを考えるときに、死にぎわを想像することにしています。死ぬ前に、「やってよかった」と思えることや価値を感じられることこそが根源的な欲求に近いものだと考えるからです。そうすると死に際から見る出世の意味のないこと。

結婚・出産なんかは最も幸せの象徴っぽいものですが、それがなぜ幸せかを説明できる人はあまりいません。「とにかくめでたいことだから!」なんて言う人も多いですよね。結婚すると無条件に「おめでとう」と言う人が多くいます。ある状態になることをめでたいとするのは、そうでない人が相対的にめでたくない状態だとする考え方になってしまうと思います。あくまでその状態により引き起こされた個人の感情を主体として考えるべきなのでしょう。

話は変わりますが、幼少期の私はゲームを欲していました。あんなに待ち遠しかったゲーム発売日前日、明日には私はとんでもないものを手に入れる・・そんな高揚感。そして発売日の当日。ゲームを手にする。喜ぶ私。しかし、数時間でなんとなく高揚感はへっていきます。数日経つとあんなに魅力的だったゲームが、ただの好きなもの程度になります。一ヶ月も経てばあって当たり前のものになります。

私はゲームそのものを欲していたと言うより、「持っていないものを手に入れることで幸福になっているであろう自分」を欲していたのかもしれません。残念ながら私は、「今持っていないものを手に入れることで幸せにはなることはできないのではないか」と言うことに、そのときうっすら気づいてしまいました。

じゃあ今まで幸せとされてたものって何だったんだ?

 

「持っていないもの」に幸せがあると思うと、欲求は無限に続きます。なぜなら人はものを手に入れたとて満足できず、次の欲求に向かうからです。ここではないどこかをずっと探し求め続けるんですね。

だからこそ社会というのはその欲求を刺激し続けるのかもしれません。そしてそれがあたかも幸せであるかのように思わせることこそが、統治したり、搾取するには非常に効率的だったりするわけです。

わかりやすい幸せを定義し、それは外側にあるものだと共通認識にする。それを見える化して比べさせ続けることで無限の欲求を作り出し続けることができるんですよね。もしそのループを心底楽しみつづけられるなら、楽なのかもしれません。でもどこかで違和感に気づいてしまったのなら、自分と向き合うタイミングなのかもしれません。

本当の幸せってなんじゃろな?

じゃあ本当の幸せってなんじゃろな?って話です。外側に幸せを見出すと、基本的には消費と浪費を繰り返し続けるしかなくなります。

消費や浪費って非常に近代的ですよね。こういう時代の前は現代のような浪費なんて考えすらもそんなになかったはずなので、人はもっと違うものに幸せを見出していたはずなんです。そういう意味で幸せはなんらかの意図を持って置き換えられてしまったのかもしれませんね。

とすると、もっと根源的な何かがあるんだと思うんです。

モノがない時代だって人は幸せにいきてこられたんです。モノがなくたって幸福度の高い国や地域はあります。つまり持っていないものを手に入れたりしなくたって幸せってのは感じられるんはずなんですよね。

あるとき僕は吉野家でそれを感じたことがあります。

僕はお腹を満たすために、もっとうまいもん食いたいな〜なんて思いながら事務的に牛丼を食べていました。しかし、向かいのおじさんは一杯の牛丼を一口一口噛み締めながら、頷き、非常にいい顔で食しているんです。たかが牛丼一杯でですよ。幸せな人ってのはこんな人のことをいうんではないかと。同じものを食べているのに、天と地ほど違う感情を抱いているんですね。

今という時間を生き」「今あるものに感謝をする」こんな姿勢こそが幸せへの第一歩なんではないかとその日から少し考えるようになりました。

マツコさんも吉野家のおっちゃんと同じことに気づいているんだろうな。

 

マツコ・デラックス