偉い人にはあたかも彼が偉くないかのように接しなさい。そして偉くない人には、あたかもその人が偉い人のように接しなさい。
相手によって態度を変えないことって大事だと教えられて育ちましたよね。
でもよくよく考えると、学校では先生には敬語、友達にはタメ語。
学校という環境下の中でそれは必然のように教えられてきました。
家庭でもそうですよね。
子供に対しては赤ちゃん言葉を使ったり。
厳しい家庭だと親に対しては敬語を使わせられたり。
でも、一方で「相手によって態度を変えない」ことがいいことだとも教えられる。
この辺の矛盾ってどう思います?
なんていうと僕がずっとそんなことに疑問を持てていた、
高尚な人間なのか?なんて思われてしまいかもしれませんが、
僕自身こういうことに疑問を持てていませんでした。
というか、どこかで違和感はあったのかもしれませんが、
ぼんやり考えるだけで全く言語化できていなかったと思います。
社会に出て歳を重ねて、中間に立つことが増えて、
自分という人間の小ささを感じるたびに、
「本当にこれでいいのか?」と疑問を感じるようになっていった感覚があります。
そもそも、例に出したようなことって悪いことなんでしょうか?
子供に対して赤ちゃん言葉を使うことは?
先生に敬語を使うことは・・?
これらを大人に問えば、
「良いことはすればいいんだ」みたいな回答が返ってきそうです。
友達に話せば「面倒臭い」と言われることでしょう。笑
でも僕は考えたい。
そもそも「良いこと」なんて絶対的な尺度があるわけではないので、
「良いことは良い」みたいな言葉は何かを言っているようで何もいっていません。
そしてそのような曖昧な態度が、
自分の尺度を都合よく捻じ曲げ、
悪い意味で人、によって態度を変えるという行為につながっていくのではないでしょうか。
僕は何事も一貫性こそが大事だと考えています。
絶対的に正しいことなどない。
だとすれば自分が信じることを貫くことでしか、
自分自身に報いることなどできないと思うんです。
だとすれば、僕は別に問題とされていないようなことでも、
一貫性がなければやるべきでないと思うんですね。
極端な話ですが、
赤ちゃん言葉を子供に使うのであれば、
どんな相手にでも赤ちゃん言葉を使うべきと思うんです。
同級生にタメ語を使うのなら、
先生にもタメ語を使うべきと思うのです。
ある一定条件だけ許される無礼やフランクさとは、
相手を選んで態度を変えていること以外の何物でもないと思うんです。
ちょっと無茶なことを言いました。
ただ、どちらかが無理なら僕は合わせられる方に
合わせるべきなんだと思うんです。
誰にでも赤ちゃん言葉を使えないのなら、
子供にも赤ちゃん言葉など使わなければ良いのです。
先生にタメ語なんか聞けないということであれば、
友達にだって丁寧に話すべきなんです。
結局のところ誰に対しても徹底的に敬意を持って接すること以外に
一貫性を貫くことなどできないのではないかと思うんです。
「後輩には何を言ってもいい」
「部下は叱りつけていい」
そもそもこれってどんな論理なんだよって話じゃないですか。
結局誰を相手にとっても最大限の敬意を払えていないような人が、
本当に敬意を持った人間であることなどあり得るのでしょうか?
なんてことを言いながら、
相手に合わせた態度を変えてしまっている自分に気づく時があって
辟易するんです。
でもそんなもんかもなとも思うんです。
そんなことが心がけだけで完璧にできていたら、
あっという間に解脱できますよ、と。
僕の心地の良い自分らしいスタンスは、
誰にでも「丁寧にちょっと失礼」です。
この一貫性を崩さないように、
どんな人とも接するという軸を貫き、
間違えたら反省しています。
一貫性をなぜ大切だと思うのかを、
あまりちゃんと深掘りできていない木がするので、
自分自身でもう少し言語化していきたいと思っています。