コトバびいき

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不思議だったのは彼が楽しんでいるようにみえないことだった。彼の声は明らかに周囲の人に向けられていた。それはなんというか、自分をみてほしいとの思いが込められた声だった。【暇と退屈の倫理学/國分功一郎】


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不思議だったのは彼が楽しんでいるようにみえないことだった。彼の声は明らかに周囲の人に向けられていた。それはなんというか、自分をみてほしいとの思いが込められた声だった。

【暇と退屈の倫理学/國分功一郎】

 

結構周りの人の嫌な感じを敏感に察知してしまうんですよね。

 

多くの人がそうかもしれません。

でもなぜその人に嫌悪感を抱くのか、

なぜその行為に違和感を抱くのか。

 

こう言った感情をちゃんと言語化できている人って結構少ないんじゃないでしょうか。

僕自身も何となく「この人苦手だな・・」ってな感じで、

ちゃんと言語化せずにスルーしてきていました。

 

 

この一節は國分功一郎さんが、

あるバーで飲んでいた時に近くにいた人が

騒いでいた時に感じたことだそうです。

 

僕もこのようなシュチュエーションは容易に想像がつきます。

 

明らかに近くにいる異性を気にしながら声を変に張り上げている男性や、

横目でチラチラ横のイケメンを意識しながら話している女の子。

 

まぁこんなことを言っている、僕自身ももしかしたら気づかないうちにやっているのかもしれませんが。

 

ただ、苦手だなとか好きでないなと思う行為は、

あたかも特定の対象や、自分自身に向けたベクトルのように見せかけておきながら、

外に向けて自分の存在を主張している時に多いように感じます。

 

例えば服とかってどうでしょう。

 

奇抜な服を着た人って2つのパターンがあるように感じます。

 

・本当にただ好きできているパターン

・他者と違うという自分のアピールパターン

 

これって不思議と前者は見た時に、奇抜だけども違和感がないんです。

ところが後者ってなんか変だなって感じるんですよね。

 

話をしてみると、このような心の発信源の違いを感じるんですね。

 

自分に向けられたものなのか。

他者に向けられたものなのか。

 

自分に向けられたものの場合って、

凄く潔くて気持ちいいんですよね。

しかも自分の好きで着ているので、凄くしっくりくるんです。

 

でも他者に向けてきられた服って馴染んでないんですよね。

この服は他者に見せたい自分を作るための、鎧なんだなって感じさせるんです。

 

 

 

大声で話している人も多分同じで、

どこか自信がなくて、

自分の価値を信じられなくて、

不安で。

 

そんな自分を偽るために、何とか自分を保つために、

理想の自分に見せかけるために、

少しでも大きく見せようと必死なんじゃないかなって。

 

そして、そう言った虚勢に周りは敏感ですぐに気づかれてしまうという悲しい事実。

 

みんなが虚勢なんかはらずに、純粋に生きられるようになると、

より過ごしやすい社会になっていくんでしょうね。

 

【暇と退屈の倫理学/國分功一郎】